茶道と失恋
私が茶道を始めたのは、失恋がきっかけでした。
茶道=意識高い系、お堅い系。
そんなイメージがあるのだと思いますが、全然そんなことないです。むしろ、私が茶道を始めたのは失恋という格好悪い理由からです。
その頃、私は関東にいたのですが、その人とは結婚を考えていたので、その別れはすごく辛くて地元に戻らざるおえなかったほどです。
そして久しぶりに帰った田舎の景色は優しく穏やかで、コンクリートジャングルの都会とは違い、ただただ癒されました。
煌びやかな都会に憧れ上京はしましたが、いつも気を張って生きてきたんだなぁ、隣の芝は青く見える。本当にそうだったんだってしみじみ思ったのです。
ここにはここの良さがあると。
でも地元に戻って大自然に癒されたけれど、周りを見渡せば二十代半ばなんて同級生は、結婚して家庭を持ちマイホームを建てようとしていたり、仕事が楽しくて充実した日々を送っていたり。
私には家庭も仕事も何もなく・・・
そんな時、友達がふとしたきっかけで茶道教室に誘ってくれたのです。
その友達は、一つ上の先輩で、綺麗で仕事もできて、そして、県の観光大使もしていて頭も良いし、カッコよくて頼りになる彼氏とも婚約して、私の憧れそのものでした。
初めての静寂
初めて茶室に入った時、心の底から、ホッとしました。
それをのちに、「静寂」だと知ったのですが、私が人生でそれを初めて感じたのが茶室でした。
茶室には、普段一心同体かのように身につけている、スマホや時計は持って入りません。指輪も外します。昔は武士すら刀を取りました。
それは、茶室では身分や役職を取り、ただただ一人の人間として存在することを意味します。
現代ならお母さんや奥さんの役目を、働く女性なら社会人、それは築き上げた幸せだけれど、それが時に重荷や悩みになることもある。
だからこそ、それを一旦置いてただただ、一人の人間でいる時間が必要なのです。
それは、何百年も前の武将と一緒なのだと思います。
そして、四畳半の決して広くはない空間に人が集っても世間話などせず、釜鳴りをただ味わいます。
釜鳴りとは、釜の湯が沸く音、つまり沸騰音です。日常ではかき消されてしまう、微かな音。きっと普段なら聴くことはないでしょう。でも、この茶室では主役かのように響き渡ります。
そして、昔の茶人は、この釜鳴りに「松風」と名前を付け、松林に風が吹き抜ける様子に喩えたそうです。
そんなかすかな音が響く空間だからこそ、ずっと見ないようにしていた私の気持ちを感じたのです。
「あぁ、私に愛される価値あるのかな」気がつけば、心の中でそう呟いていました。
これまで、失恋して辛かったけれど、友達や家族には心配かけたくないと明るく振る舞っていた私。
バイトも本当はしたくなかったけれど、実家にお世話になるなんて・・・と長女のしっかり者気質はすぐ働くことを選んだのです。
忙しく働けばその間は忘れられるし気持ちを切り替えているつもりだったけれど、今振り返ればそれはただ悲しみから逃げているに過ぎなかったのだと思います。
それがなんと茶室に入った瞬間感じたのです。きっと、それは孤独感というものだったのでしょう。
でも、だからといって、その気持ちに引っ張られることはなく、
「そんな悲しみや孤独を抱えていたんだね」親友が寄り添って話を聞いてくれたかのようでした。
茶室とは静寂ホーム
生きてると色んなことがあります。
嬉しいことも楽しいことも、驚くほど幸せなことも。そして悲しいことも怖いことも怒ることもあるでしょう。
もちろん、悲しいことがあったとき茶道をするのはおすすめです。逆に、嬉しい時や楽しい時、感情のクールダウンにも最適だと思います。
私は茶人として、どんな感情もそしてどんなことが起こっても、茶室のような静寂ホームに戻れるということ、そしてそのことを、人生をかけて伝えていきたいのです。
情報過多なこの時代に、
思わぬところで誰かと繋がってしまう時代に、
たった一人の尊い自分の気持ちを感じて生きていこう。
全てはある
茶道をしてしばらくしてふとそう思いました。
あれも足りない、これも足りない。そういえば、いつも私は何かを追い求め達成する、完全な目的思考型人間でした。だから情報をいち早く仕入れなきゃ、勉強しなきゃ、努力しなきゃ。
地元に戻ってきて最初に思ったことは、同級生と比べて、「私には何もない」でした。
いや、優しく迎えてくれる実家や親戚はいたし、それは恵まれていることです。二十代ならいくらだってやり直せる。それなのにないことばかりを見てしまっていたんです。
本当は、同級生だって言わないだけで子育てや家庭のことで悩んでいるかもしれないし、仕事で輝いてる人だってその根底には努力があるはず。
そもそも、比べるなんてしなくていい。素直に私失恋して辛いんだよね〜とのほほんとしておけばいい。
しっかりなんてしなくていい。できなくていい。
だって、それが私なのだら。
そう、力を抜くことが一番難しいのです。信頼して委ねることが一番怖いのです。
だから、勉強も頑張って国立大学に行って、本当は小説書くくらい文学が好きなのに、将来役に立ちそうという理由で文学部ではなく経済学部を選びました。
家族に迷惑かけないように、学校でも働いてからも、反論せずニコニコしている物分かりの良い子だったのです。
でも、茶道だけは、ただ好きでホッとするから何にならなくても続けていたのです。
今は先生の資格はありますが、茶室が家にあるわけでもなく、生徒さんを迎えられるほど茶道具もありません。
退職しておばあちゃんになって趣味程度で教えられたらいいなっていう夢はあったけれど、まさか茶道について発信したいと思うようになるなんてその当時の私からすると驚きです。
小説家デビューしなければ、SNSや発信をしたいと思わなかったほどです。
だけど、ただ好きで続けていた、それがいつか花開くのです。
茶花は「野にあるように」つまり、自然体で花入に飾ります。自然体なのでもちろん蕾のものもあります。
だけど、控えめな可愛らしさや蕾だからこそこれから咲こうとするその決意、力強さを感じます。
時々、本当に自然と花開くこともあります。午前中には蕾だったのに、夕方には咲こうとしている。
茶室で生きているのは、茶花だけ。
だから、安心できるのです。安心して、心の声を聞けるのです。そして、私もこの茶花のように今この瞬間、茶道を発信していこう!そう咲こうとしています。
決して、咲いている状態が良いと言っているのではありません。蕾の時だって可愛いでしょ?
自然体でいいんです。泣いても笑っても怒っていても、時々、後悔していても。
茶室には、スマホも時計もテレビもPCもラジオすらありません。
だけど、全てがあるのです。そう、自分の気持ちがあるのです。
だから、人は静寂を感じ豊かさを感じるのです。
そして、私は、気持ちの豊かさだけでなくリアルに茶道をして人生が好転しました。
まずは就職が決まったこと、もちろん大変なことも嫌なことも日々ありますが、それはどこで何をしたって少しの苦労はあります。ただ、今、健康に幸せに働いています。
また、なんと言っても小説家になれたこと。しかも、賞をとったとかありきたりなことでもなく、ただワクワクして書いて送った、それだけです。
もちろん、茶道は、直接的には関係していません。
だけど、茶道をすることで、考え方が変わりました。
他人は色んなことを言います。良い評価の時には自分を褒め、そうじゃない時には自分を責める。
そんなの自分が可哀想じゃないですか?
茶道は、一見生産性のない無駄なことのように思うかもしれないけれど、結果的に人生を好転させてくれます。
何かを求めて努力しなくても、誰かと競争したり比べたりしなくても、静寂の中、自分の声を聴く心と感性さえ取り戻せば、その瞬間豊かなのです。
そう思ったら、人生楽しいでしょ?
色んなことを挑戦したいと思うでしょ?